犬小屋
 庭の片隅に犬小屋があり、柴犬の雑種が繋がれている。
 これが子供のころのわたしの家の当たり前の風景で、犬はペットというよりは家の備品のひとつみたいなものだった。世話をするのは子供の仕事と決まっていて、毎日母にやかましく言われながらエサをやり、気が向くと一緒に遊んだり散歩に連れていったりした。
 一匹が死ぬとどこからかまた新しい子犬が貰われてきて、いつの間にか先代の犬と同じ「うちの犬」として犬小屋におさまった。家族は犬を個体として愛するというより、「犬」いう括りで認識し、暮らしの一部として一種の義務のように犬を飼っていた。
 犬を好きだったのか、よく覚えていない。それでも犬派か猫派かみたいな話題になると迷わず犬を選んでいたので、決して嫌いではないし親しみは持っていたのだと思う。
 高校を卒業して家を出る時には犬も4代目になっていた。それはまだ若い雄犬で、白地に薄茶色のブチがあり目の色も薄茶色だった。世話をするのは主にわたしだったが、自分がいなければ家族の誰かが世話をするだろうと気にもとめずに家を出た。今思うと、父は犬の面倒など決してみない人だったし、母は仕事と家事で手一杯だったし、小学校低学年の弟にはあの犬は大きすぎて力がありすぎた。おそらく犬は毎日繋がれたままでエサを与えられるだけの生活だったに違いない。たまに帰宅するわたしを犬は狂喜乱舞して迎えてくれた。犬にとっては滅多にない散歩のチャンスだったというわけだ。わたしは熱烈な歓迎に気をよくして犬を散歩に連れて行き、普段の生活にもどるときれいさっぱりと犬のことは忘れた。それから3、4年で犬は死んだ。フィラリアだった。
 その後、どこからか自然に犬が貰われてくることはなく、庭で続いた犬の系譜は途絶えた。数年経って、母がペットとしての犬を室内で飼いはじめるが、それはまた別の話だ。
 今でも庭の片隅には犬小屋が当時のままに残っている。最後の住人が去ってから20年余りが過ぎ、朽ち果てないのが不思議な無用の長物を「片付けたら」と提案すると、母は、だってこれがあれば犬がいるように見えて番犬代わりになるから、と答えた。
 街で犬を連れた人とすれ違うと思わず振り返って眺めてしまう。犬を売る店先で小犬を見ても頬が弛む。犬が好きかと聞かれたら好きだと答える。
 今のご時世では犬は大切な家族の一員として扱われるのが一般的だし、そういう主人のもとで幸せな生涯を過ごす犬が多いに違いない。それでも犬という生き物をイメージする時、どこかに寂しさを感じずにいられないのは、我が家の代々の犬達のせめてもの自己主張なのかもしれない。
 面倒がらずにもっと散歩に連れて行けばよかった。もっと世話をすればよかった。気まぐれで怠け者の主人をそれでも犬は好いていて、近寄れば文句なく大喜びしたのだ。
 ごめんね、わたしの犬達。彼らはいつの間にかうちの犬小屋に住むようになったと書いたが、丁寧に記憶をたどれば、小犬だった彼らをみそめて「ちゃんと世話をするから」と母を説得し毛むくじゃらの暖かな塊をしっかり抱いて家に連れ帰ったのは、いつもわたしだった。

(2005,03,12)