カゲロウ・ガーデン
 ここでちょっと待っていてね。
そういうと母はひとりで車を降りた。そこは母が勤めていた幼稚園で、たぶん仕残したちょっとした用事を片付けるか忘れ物でも取りに来たのだろう。すでに春休みに入った園庭に人陰はなく、子供達の元気な足でしっかりと踏み固められた地面は、降り注ぐ春の光でとろける蜜のようだ。
 しばらくの間、わたしと姉はおとなしくシートに腰掛けて母を待つが、母はなかなか戻ってこない。いい天気。狭い車の中はぼんやりするくらいに暖かい。たいくつでたのしい。わたしたちはどちらからともなく外に出て、そのへんをふわふわと走ったりお日様を浴びて笑ったりした。
 誰もいない。なにも聴こえない。まるでわたしたちのために用意された秘密の庭だ。幼稚園に上がる前の年令のわたしにとって普段はここは、大きな子供達が活発に遊ぶのを気後れして見ているだけの場所だった。時間はいつまででもある。お日様は陰らない。
 庭のあちらに陽炎がたっている。陽炎を見るのは初めてだったけれど、それがカゲロウだとすぐにわかった。ゆらめいて立ちのぼる空気を見ていると、自分もまた透明な何かでできているみたいに気持がうごいた。
 ふわり。ゆらり。ふと浮かんできた短いメロディーを口ずさむ。ふわふわゆらりとからだが動く。お日様と地面と。その間にカゲロウとわたし。それを踊りといっていいのかわからない。けれども、あれがわたしの始まりだ。
 カゲロウのダンス。音楽もダンスもわたしの中から生まれた。いや、音楽もダンスもはじめからそこにあった。 必要なものはぜんぶ用意されていて、たりないものはひとつもない。
 用事をすませて戻った母に出来上がったばかりの歌をうたって聞かせた時、子供はきっと輝くような顔をしていたに違いない。出来たばかりの稚拙な歌に耳を傾ける母の顔は日光浴でもするように眩しげだった。

(2005,03,14)