2008年04月30日(水)

 時計が!出てきました〜!
 にゃんともびっくり。
 実は無くしたというものの、いつか妙な感じでひょっこり出てくるような気がしていて、しかし、まさか本当にそうなるとは。
 それがね、家の中にあったんです。玄関に置いてある自転車の後輪のギアに引っかかっていました。ふと目に入った自転車のギアの金具がいつもよりすごく可愛いな、と思ってよく見たら、それチャームのついたあの時計だったの。
 無くした日、帰宅してドアを閉め、右手でドアをロックし、右回りで振り向いて部屋に入る、その振り向く途中に一瞬だけ自転車の後輪の上を右手が通過するんですが(と、現場検証)、その一瞬に時計の留め金が外れてギアの金具の上に落ちて引っかかった。あ、わたし、そのブレスレット型の時計はいつも右手に着けています。うーん。ありそうであり得ない気が。
あの日、部屋からタクシーを降りた場所までの動線をたどって探してみたし。もちろん玄関もしっかりチェックしている。あれから4日間、なんども自転車の側を通り目にしていたのに、今日まで気付かなかったというのも妙な気がする。
 物欲なんてそう簡単に落とせるものではないよ、と教えられたような気もするし、逆に、大切にしていたものを無くしても、自分が自分であることになんの支障もなく過ごせるんだよ、という短期間のトレーニングを受けたような気もします。
 どっちにしろ妙な出来事でしたが、時計ひとつでおろおろじくじくしていた自分は、まだまだ小さい人間だということがわかり、小さいってことはもっと大きくなる可能性を秘めているわけで、それに気付いただけでもありがたいことであるよ。


 2008年04月29日(火)

 休日出勤。で、先日からの窓シール貼りの続き。
カッティングシートを切り抜いて教室のキャラクターなどの図柄を作り、それを2軒のガラス戸全面に配置して貼っていくというもの。
一度貼ったらはがすのは容易ではないし、半永久に近いようなスタンスでの仕事なので、ざっくばらんな性格の自分としては、緊張。細心の注意をはらってセンターをとり、しかし、次第に「水平は勘で!」。物差しでミリ単位まで計ったりするの、ダメなんだよね。だんだん「もうできない!」。
 でも、なんとか見た目まっすぐにキチンと配置し、貼り終わった時には思わず「か、かわいい、、、!!!」。
キャラも自分のデザインだし、配色も配置も全部自分でやっているので、自分好みに過ぎないのでは、という気もしないではないが、ほんとうにかわいく、疲れも吹っ飛び。でも、ほんとうに疲れました〜。
 夕方、稽古で世田谷に行ったんだけど、すごかったですねえ、スタンド渋滞。世田谷街道沿いに点在するすべてのスタンドの周辺に給油待ちの車が列をなし、道が狭いのでスタンド付近はつねに渋滞。夜11時に近い帰り道でも同じ状態でした。
 一挙に40円近い値上げじゃあね、せめてぎりぎりで満タンにしなくちゃと思いますよね。マヨネーズが30円値上がり、みたいなのとは危機感が違うもんね。スーパーで買い物して、値段が違っていてもなかなか指摘することができず、そのまま気にしないで静かに忘れようとするタイプなので、どんな値上がりにもおとなしく従うオレですが、税金も一年前に比べて驚くほど高くなっていたし、公共料金も上がるみたいだし、じわじわと暮らしにくい社会になっていますね。
 母の友達の話などで高齢者の実態みたいなものをかいま見たりすると、ますますそう思います。例えば、母の友人(70代)の息子さん(50代)が病気になって実家に戻って同居しているんだけど、もう長いこと働けないでいるので生活保護を受けようとしたら「家を売りなさい」といわれたんだって。家を持っている人が生活保護を受けることができないのはわかるけど(ん?でも息子さんの名義ではないのでは?)、年金暮らしの高齢者夫婦が家を売るって、こんなご時世だし、なかなかキビシいですよね。


 2008年04月28日(月)

 よく火サスとかで、復讐劇的に殺人を犯してしまった犯人の女の人が「償ってほしいとかじゃなく、、、ただ謝ってほしかっただけなんです!」と泣き崩れたりするでしょ、あれ、けっこう万人に共通する心理ですよね。
 ただ謝ってほしかった、ありがとうと言ってほしかった、認めてほしかった、、、、。
 でも、これって、たとえば法外な賠償を要求するとかいうこと以上に強い自己主張だったりすると思いませんか?
だって、自分を全面的に受け入れることを相手に求めているわけで、金銭の授受などで片をつけない分、ある意味ずっと高度な賠償っていうか。
 それに、「ただ謝ってほしかっただけなのに」と思うような状況を冷静に観察すると、相手には謝る気なんかさらさらないことが多く、その出来事を気にも留めてないかまったく重要視していないかで、きちんと説明し話し合って折り合いをつけることができればいいけど、相手が自分からこちらの気持ちを汲んで謝るということは、まずあり得ない。のでは。たとえ謝ったとしても、「本気で謝ってない!形だけだ」というのはよくあることだし、かりに相手が心から謝罪しても「いまさら謝られてももう遅い」とか、ね。
 つまり、無い物ねだりで地団駄踏んでるっていうか、取り返しのつかないことに執着して自己主張する人間の我の強さっていうか。我の強さは生きる人間の必須条件ともいえる。だからこそ、火サスによく登場するのでしょうね。
 ところで火サスといえば、先日、友人達とどんなテレビを見ているかが話題になり、「火サスとか」と言ったら、ええっ神蔵さんって!火サスなんか見るんだ!と激しめな反応をされました。
 火サスってそんなに見ないですか?
 なぜ火サスかというと、ひとつには、筋を知る必要がなく環境音楽的につけておけばいいからで、心が静まるものよりはざらざらした空気にあたってだらだらぐたぐたしたいような疲れ方の時には合いますよ。もうひとつは、火曜だから。火曜は仕事が忙しくて疲れるんだよね。といってもここ半年は火曜の夜に仕事が入っているのでほとんど見る機会がなくなり、あらたに環境音楽的番組を発掘する気力もないので、テレビをつけなくなってきて、テレビ業界で活躍する友人、ゴメンナサイ〜。


 2008年04月27日(日)

 時計をなくしました〜。
昨日、友人とライブに行ってすごく楽しい?と喜び、ライブが終わった時には腕に付いていたのですが。
帰り道どこに寄ることもなく、走ることもなく、アバレルこともなく、酔っているわけでもなく、じつにおとなしく電車とタクシーで帰宅したのですが、部屋に入って何かおかしいなと思ったら時計してないんですね。
 がっかり。ブレスレッド型の時計で、たくさんのチャームがついていて、チャームのひとつに小さな時計が仕込まれているお気に入りのものだったので。留め具はがっちりタイプではないけれど、自然に外れるような構造ではないし、なんだかキツネにつままれた気分。歩いていて外れる?電車に乗っていて?タクシーに座っていて?なんか、あり得ないって感じ。
 お気に入りの物を無くすことはあまりなく、数年前に人からプレゼントされたダイヤのネックレスを初めて使ったその日に無くしたのと、昨年の冬に長く愛用していた皮のグローブを片方落としたのと、今回の時計くらいかな。案外物持ちがいいともいえます。
 無くすたびに、その物ではない何かを一緒に無くしているよう気がしていて、
それは、無くしたもの物に付随した「気」みたいなもの。
今回は何を無くしたんだろう。無くして悲しかった「気」もあるし、逆に無くすことで欠けていた何かを得ることもあったけど。
 今回の時計は、かなり気に入っていたので、思わずネットで同じ物を探しましたが、そのブランドの定番ではなかったのでさすがに見つからず。似たようなものも特になく、それ以上に好きなものも見つからないのでまあいいや。とあきらめました。とりあえずは、体内時計で!
 もしかしたら、今までもかなり時間に捕われない日常だったけど、さらに自由奔な(?)日常へとグレードアップか?あるいは、待ち合わせに常に遅れがちなので、そんな人に時計はいらないでしょ、という戒めでしょーか。


 2008年04月26日(土)

 そういえば、昨日職場の人から聞きましたが、ガソリンまた上がるんだって。160円代とか。。。。。おいおい。ハイオクじゃないんだから。
 エコのこともあるし、ビンボー人は車使うなってことかいな。だけどわたしみたいな超腰痛の人間は、普通の仕事バッグを持って移動するだけで疲労困憊で、腰痛治療には保険は効かないし、もちろん必要経費にもならないし。
 気楽な一人暮らしではあるけれど、さまざまな場面でひっそりとものの値段が上がっていたりする日常、うすら寒いですよね。収入もいつの間にかひっそりと値上がりしていれば、、、納得だけどね。
 腰痛といえば、そんなに腰が激痛ではダンスは大変でしょ、といわれるが、これが不思議なことにダンスの方が楽なのです。つうか、いちばん楽なのがダンスです。実は、普段の生活は、椅子を引くとか、ドアを開けるとか、そういう普通の動作でもかなりきつい。物を運ぶ等、明らかに腰に負担がかかりそうな動作の場合は、人に頼んでかわってもらえるけど、まさか、ドア開けてとはいえないもんね。開け〜ゴマ!
 昨日は職場で窓ガラスにカッティングシートを貼って飾り付けをするので、まずは窓掃除だったんですが、そんな普通のことでも腰にかかる負荷の大きさが手に取るようにわかり、まずいなと思っていたら案の定、今朝は起きれず。ほんとにね、人間、腰だったのでした。何をするにも腰に力が入っている。
 ダンスの時にわりかし平気なのは、動きを自分の体だけがコントロールしているから。かかる負荷は自分の体重に起因するものだけだし。動きの目的が物理学的な「仕事」ではなく、仕事量度外視の「表現」なので、体に働く力のベクトルは天に向いても地に向いても、すべて無重力みたいなものなのでしょう。
 というわけで、なるべく自分の専門分野以外の仕事をしなくてもやっていけるようになりたいオレですが、カスミを食べて行きていけるのは仙人のみで、少しでも腰が長持ちするように工夫するしかないのでした。


 2008年04月24日(木)

 ひとくちにダンスといっても、たぶんいろいろなんだよなあ。
 いまさら何言ってんの、ですが、たとえば、わたしが自分を説明する時に使っているコンテンポラリーというジャンルにしても、ある種のくくりにはなるけれど、それは、実に平面的なくくりで、横から立体としてみた場合、明らかに異なるジャンルが重なりあって存在しているともいえるのでは。
 単純にいうと作家は自分の観たいものを求め創り出そうとするわけで、観たいものを列挙していって形成されたグループが自分の属している真の有効なジャンル分けともいえる。てなことをいってると、ジャンル分けがものすごく個人的なものになってしまい、ジャンルがジャンルであることの意味を成さなくなるんだけどね。
 なぜこんなことにいまさらこだわっているのかというと、自分が求めるものが出現している舞台作品は、地唄舞等の日舞やある種の舞踏などに多い。舞台に限定しなければ、それは、絵画や音楽の中にも見つけられる(けど話の収拾がつかなくなる)。自分と近いはずのコンテンポラリーダンスの作品には、それが有名どころの評価の高い作品であってもどうもついていけなかったりして、日頃コンテンポラリーをほとんど観に行かないから勉強不足なのだろうが、たまに観に行くと肩すかしをくらった気分になり、さらに観に行かなくなってしまう。
 やばい、コンテンポラリーダンス界全体を敵にまわしてますか?もちろん、素晴らしいダンサーや、天才的な作家や、、、そういうことはわかるんですよ。だけど、胸にずしんと来てぐっとつかまれて、というのが、あまりない。
100人いたら100人全員がわたしのダンスよりそのコンテンポラリーダンスの舞台を評価するとわかっていても、それが自分の観たいもの目指す方向と違うというのはどうにもしようがないわけで。
 つまり、ここで気付いたのですが、自分をコンテンポラリーという枠にくくっているというのがそもそもいかんのかもしれませんね。意識化できてないけど、自分の表現にはなにか違う価値観の軸があるのでしょう。そして、それと同じものをあまり舞台で見かけることがないというのは、みんなが舞台に求めるものとズレているということで、この先、多くの人に自分の作品を観てもらう機会に恵まれるという奇跡的な出来事は期待しないで、こつこつと創り続けるべきなんだろうな。


 2008年04月23日(水)

 わたしの住むマンションの向かいの建物は、一見ふつうのマンション風だが実際は小さな工場で、精密機器の部品を作っているらしい。外国人の労働者が多く、昼休みになるとうちの駐車場のあたりに出てきて、どこか外国の言葉でしゃべったり、タバコをすったりしている。
 この部屋に越して一週間ぐらいで向かいがそういう状況だと気付き、そういえばちょっとだけ家賃にお得感があったのはこの環境のせいかと思った。でも、よかったの、冬のうちは。外国人労働者の人だって別にどこかの国の軍みたいに傍若無人なわけじゃないし、聴こえてくる言葉が南米っぽくてそれも案外と面白かったりもして、ね。
 しかし!気候が暖かくなってくると!そんなのんきなことは言っていられなかったのでした。
 暖かいから工場の窓が開く。すると!金属を研磨する機械の音が外に漏れて来て、一日中鳴り響くわけです。ジーコジーコとかシューシューとか、ジジジジとか、絶対音感を持っていたら気が狂うって程の様々な音程の音が様々なリズムで鳴り響き、やむことがない。こっちが窓を閉めていてこれだもん。夏になっても窓は開けられないね。
 実はこの部屋は、当初、仮住まいの予定で借りていたのですが、案外住み心地がよく、予定より長く住んでしまいそうな気分になってきていた今日この頃でしたが、ここは気持ちを引き締めてこの場所にずるずる住み続けそうな自分をなんとかしなくては。ダンスのスタジオと作るという意外な計画をたてて準備をしていたのですが、いろいろと力不足でもあり、なまけものでもあり、慣れないことで奔走するのが面倒になりつつあったのですが、静けさを愛するオレとしてはこの機械音は我慢ならない。なんとかスタジオを完成させて、ここから脱出しなくては。


 2008年04月22日(火)

 ぴかぴかにいい天気でござる〜。
 そういえば『うかぶおもい』の衣装に使った黒のロングドレスを、ある人からすごくよかったと褒めていただき、「作ったの?」ときかれました。
いえ!既製服です!
 某超有名ブランドのすごくよく出来たあのドレス、「作ったの?」は、オーダーメイドかという意味でしょうか。でも、わたしがよく変な服を自分で縫って来ていることを知っている人なので、「自分で作ったの?」ときかれたような気もする。
 もし、自分であれを作っていたらすごいなあ。ダンスなんか踊ってる場合じゃない。そして、自分でデザインを起こしてオーダーしたとしてもすごいよね。即座にデザイナーに転向だあ!ファッションブランドを作ろう!
 ダンスの衣装というのは水物で、作品に合っていれば、そしてその人の動きに合っていれば、布切れ一枚でも、ハダカだっていいわけで、必ずしも服として優れた物が当たりとは限らない。のですが、わたしの場合、わりとちゃんとしたものを使うことが多いです。普段の服装からは想像のつかないようなブランドだったり、これステージで来て暴れるのもったいないじゃん、みたいなもので暴れてます。
 なぜかというと、なぜでしょう。えっと、まず、会場が狭いということも理由のひとつです。見えるでしょ、細部まで。それと、わたしの場合、服を着た身体として舞台に登場しているので、服が服として成立している物を選んでいます。どこからが服でどこからが身体かという区別を消し去るあり方ならば、自ずと選ぶ衣装も変わってくると思うけどね。
 ただ、どう見ても自分でお裁縫をして作ったとは思えない豪華ドレスを作ったのかと思ったというのは、たぶん、ブランドが感じられなくなるほど服が舞台上でこなれていたからなんじゃないだろうか。 服のイメージがわたしのダンスに属するものになるほど存分に着こなし、自在に大暴れしていたってこと?
 ちょっといい方にとりすぎかもしれないけど、でも、既製服を着て出て、ブランドがわかってしまったらダメだとは思っています。


 2008年04月21日(月)

  はやくも筋肉痛が治まり。
 数日ぶりに職場に出勤すると仕事がたまっていて、ガンバレ自分。うう。結局家に持ち帰るが、夜9時半を過ぎて「もう出来ない」と思ったとたんに倒れて寝たらしく、今、夜中。
 「もう出来ない」仕事の内容は、一枚の紙物のデザインなんだけど、適当に済ませてもいいという程度の扱いなのですが、作っているうちにどうも適当に済ませるわけにいかなくなってきて、個人的こだわりの範疇に突入って感じなんだけど、こういうのって適当に済ませたくないと思ったが最後、かなり丁寧に処理しないといけないでしょ、その方が絶対にいい物が出来るんだけど、だれもそこまで求めてないよと言われるに決まってるとか、そういうことをふと考えちゃうと、「もう出来ない」となっちゃうわけ。でも、だれも理解してくれなくても納得のいく物を作った方がいいよ、たぶん。ね。
 さてと。『うかぶおもい』は自分にとって大切な作品だったようで、ふと思い出してもういちど踊りたくなる。何だろうこの感じ。2000年頃は、ダンスが大好きなのは今と同じでも、踊る時にはいつでも「もうこのまま死んでもいい」という気持ちで踊っていて、体力的にもぎりぎりまで自分を追い込んでいたし、実際に公演が終わると必ず腎臓が疲れて数日間寝込むほどだったけど、そういう感じが明らかになくなったなあ。
 もちろん疲れるけど、あんなふうな疲れ方じゃないし、もしかして動きが緩くなってるのかもしれないけど、なんだか肩の力が抜けていて、楽だ。楽は楽しいってことかな。
 2006年の「Home Sweet Home」の頃も、そんなに疲れなくなってきていて「あれ?」と思っていたけど、公演が終わった直後に「今からまたこの踊りを踊りたいな」と思うほどではなかったし。
2年間の休みの間に2つ年をとり、いろいろなことがあり、人生の環境も激変し、自分ではいいのか悪いのかわからないけど、ダンスの感覚がこんなに楽になるとは。そしてダンスが楽ってことはわたしの場合ほとんどすべてが楽になるってことなので。よかったことであるよ。と静かに自分に語りかけてみる午前1時半。


 2008年04月20日(日)

 さすがに疲れが。朝早く目が覚めるけど、ふとんのなかでギークンにチュウしたり。ぐずぐず。可愛いいいいいギークンって。ほんとうにうちの子になってくれてありがとう。
筋肉痛、少々。わりかしうまく動いていたんだと思う。うまく動けたときって筋肉痛がおこりにくいのです。膝は気をつけていたけどちょっと痛みますね。やっぱりもう、完璧に直すとかじゃなく、どうやってあと何年か持たせるか、だね。
実は、公演の数日前に左太ももの中の方の筋肉がものすごく痛くなって、足が動かなくなってしまい、腰痛と関係があるにしても、この急激な痛み方は外的な要因によるものではないような気がして、ここからがお恥ずかしい話なんだけど、そこではっと気付いたわけです。
もう数ヶ月間も食欲がなく、なにかを食べたいという欲求がなかったので、食べるには食べるんだけど、よく考えてみたら温野菜のサラダだけとか、栄養バランスめちゃめちゃだったんだよね。で、試しにアミノ酸を多めに摂ってみたら痛みがかなり改善され、つまり、栄養失調だったってこと。タンパク質が足りてなくて筋肉が悲鳴をあげていたのです。
アミノ酸の大量摂取で腰の激痛も同時に改善され、もちろんこちらは外的な要因も関係しているから痛みがないわけじゃないけど、明日の朝起きれるかどうかわからないというほどではなくなりました。
たぶんこれに気付かなかったら今回踊れなかったでしょうね。だって、横たわったら起きれないんだもん。
ところで、この栄養失調筋肉痛騒ぎのおかげで、なんと、これまでぜんぜんイメージできなかった自分の骨格がレントゲンをみるように実感できるようになり、骨盤と大腿骨をつなぐ筋肉もわかるようになりました。よく、胃の痛みを感じて初めて胃の位置を知るでしょ、あれと同じです。もしかして普通のダンサーはそんなの基礎知識で知っているのかもしれないけど、そこが普通のダンサーでないオレ。あらたな知識と実感を得て超感動。
正確かどうか疑問は残るけど、イメージが自分の身体上に作れたというのは画期的なできごと。ころんでもただでは起きない。うふふ。


 2008年04月19日(土)

 おかげさまで『うかぶおもい』無事終了しました。観に来てくれた皆さん、ほんとうにありがとう。腰もなんとか持ち、右膝を床に着かないで踊る技術?が身に付き、ものすごく下手なトークで冷や汗をかき、ちょっぴり疲れ、明日は寝込んじゃおうかなと思うが、そういえば用事があったのでそうもいかないことであるよ。
 今回の一番の収穫は、振りをきっちり決めない方法で踊りたいなら、過去にうかんだおもいでなく、今うかぶおもいに従って動かないとうまくいかない、ということ。昨日うまくいったことに捕われてそれを追うのは過去(「うかんだおもい」)で、今現在の状況に視点を合わせて今現在感じていることを常に踊っていくのが「うかぶおもい」。今回のタイトル、きっとそういう意味だったのでしょう。これからダンスをしていく上で、すごくはっきりした指針を実感したって感じ。です。


 2008年04月16日(水)

 そうそう、数日前の日記に暗い感じで「結論はまだでない」と書いていた選曲ですが、おとといのキッドのリハで、最初に「これだ」と思った構成でいくことに決めました。今回は、もう差し替えも変更もしない。つもり。わたしという人間のちいさな頭が考えることよりは、第六感に近い感覚が感じたことのほうを信じよう。そもそも頭より感覚の方が好きだし。
 公演直前なので、これを読んだ人がおもわず観に行きたくなるようなことを書かねば。と思うが、気分も現実も案外淡々としているのでどうもね。
ただ、今回の作品を創っていて思い出したのが、まだ高校を卒業して間もないころのことで、そのころ、自分のやりたいことは絵画なのか、それとも別の表現なのかを迷っていて、あることをきっかけに、自分に必要なのは体を動かして呼吸をして、実際に体験することが表現になるようなタイプのことだと気付いて、子供の頃から続けていたダンスを選んだのですが、その時思ったのが、いわゆるダンスではなく、そして演劇でもない、なにかわからないけど新しいタイプの表現で舞台を作りたいということでした。
 自分にとってあまりに身近な決意だったので、最近では特に意識することもなくなっていたけど、そして、今回そういう表現に近づけたのかどうかはわからないけど、久しぶりにダンスで歩み始めたころの感覚に再会しました。


 2008年04月15日(火)

 いつのまにか15日で、びっくり。毎日いろんなことがあり、仕事も忙しく、また、自分の世界にじっと集中してもいるので、時間の感覚が無くなっているのかも。
 そういえば昨日、キッドに美術を仕込んでリハをしました。キッドの公演で美術を仕込むのはずいぶん久しぶりで、自分で高いところに登って作業をしようとしたら、以前は平気で登れた場所がどうも無理になっていたりして、キッドの若者ハヤカワくんに手伝ってもらったり。年でしょーか。そんなに運動能力が落ちたとは思わないけど、腰が悪いのでどうも腰が引けます。つうか、やっぱり年かもよ。むかしは平気で小道具として振り回したり(!)、登って踊って「出初め式みたいだね」と言われたりしていた大きなサイズの脚立なんか、もう持って運ぶだけでも嫌で、ハヤカワくんを呼んでしまいそうだもん。
 それにしても、自分では何の疑いもなくまだまだ踊りを続けるつもりなのに、このように腰が痛むということは、何か気付くべきことがあるに違いない。と、考えて、今日の稽古ではちょっとちがうやり方のストレッチを試み、なんとなくヒントが見えた気がする。これを極めてわたしのように腰の悪いダンサーの役に立てるようになりたいな、と飛躍。明日どうやって起きようかという人が、のんきです。
 美術は、なんの構えもてらいもなく、作っていて楽しかった。自分でもぜんぜん意味はわからず直感だけで、でも、出来上がってみてこれでいいんだ、と。
じっくり考えたり、コンセプトを練ったり、たぶん今の自分がそれをやってもたいしたことはできない。まあ、これもただの直感なんだけどさ。
 今回は、踊りもいつもとちがう作りかたをしていて、いいとか悪いとか好きとか嫌いとかは観た人が自由に判断すればいいわけだし、自分は今出来る最大限のことをやればいいってところかなあ。いえ、「やればいい」じゃなく、やらせていただきたい。踊りは、自分にとってやはり特別な行為であり、こうして再び作り踊れるということに深く感謝。だが、腰は痛い、、、。 


 2008年04月12日(土)

 結局、結論は出ず。あ、曲です。特にラストの曲が。部屋でじっと聴いていて、あまりの長さに癇癪がおきそうになり、こりゃあまずい。でも、曲の長さって状況によって伸び縮みするものなので、いい感じの設定に入れればやりたいことが表現できそう気もするんだけど。ちなみにこの曲、約21分あります。現代音楽の苦手な人にはきついかも。つうか、現に自分で癇癪がおきそうになったんじゃん。同じアーティストの似たタイプの曲で11分のものに差し替えようか。でも、それだとどうも軽すぎるような気もするし。
 もう本番まで一週間ないのに、まだ曲が決まってないとは!と驚きあきれるひともいるだろうけど、なんか毎回いつまでもじくじくと迷うんだよね。できた!と思っていても直前に構成をぜんぶ変えることもあるので、自分のことながらほんとうに安心できない。今回は膝に加えて腰にも爆弾を抱えているようなものなので、なおさら安心どころの騒ぎじゃないけれど、まあ、こうして再び何かを作り何かができるというのは、ありがたいことだ。
 それにしてもどうするのが正解なのか、キュウチャーン!


 2008年04月11日(金)

 昨日今日と、久しぶりにじっくりと稽古場に入って、、、ぼんやり。あらら、ちがうでしょ。
 いま一番迷っているのが、アファナシェフのモーツアルトを使うかどうか。そう、例の異様に遅い演奏のモーツアルトです。これでいいのかどうか、どうも自信がない。もちろん演奏は素晴らしいんだけど、そういうことでなく、自分の作品的にはどうなんだろう、と。難解な印象に耐えられるのか。でも、テーマ的にはかなり合っているので、難解にならないように踊れれば問題ないような気もするけど、難解になっちゃう可能性も高い。難解なのは避けたい。深刻も。避けたい。
 そして、さらに、ラストシーンの現代もののピアノの音源も微妙。ダンスが上手ければ問題ないような気もするけど、お世辞にも上手い方じゃないオレ、残念。ただ、構成的には正しいような気もするので、がんばれオレってところでしょうか。
 この迷っている2曲は、どちらもちょっと無理でしょそれ、という程の長さなので、この2曲の選曲が失敗だったら、時間的に作品の半分は失敗ってことになってしまう。それでは観ている人も気の毒だ。気が小さいので今すぐ謝りたい気分だが、おちつけオレ、謝っても仕方がない。
 いったんクールダウンして気持ちをリセットして、月曜のリハまでに結論をだそう。


 2008年04月10日(木)

 ずっと日記を書いていなかったので、やっぱり公演前はダンスで忙しいのね、と思ってくれていた心やさしいアナタ、実はそーではなく、先週勃発?した仕事のトラブル的出来事に謀殺され、さらに、期限ギリギリまでのばしていた別の仕事に追われ、すごく短い睡眠時間でよろよろと働いていました。
合間を縫って、DMの名簿を整理し、住所録を作り、発送作業。パソコンでの名簿管理が苦手で、ずっと人に頼んでいたので、もしかして自分では出来ないかもと思っていたけど、気がつくとなんとか作業終了。かなりぎりぎりになっちゃったので、どのくらい観に来てくれるか、、、。だ、だれもいなかったりして、、、。がーん。まあ、しかたないですね。
 携帯に毎日ものすごい量の迷惑メールが来て、ほんとうに迷惑だ。携帯にもフィルターとかかけられるのかな。どうやるんだろう。とりあえず今忙しいからそのままだけど、着信があるたびに不愉快な思いをするので、携帯を側に置くのが嫌になり、携帯しないで出かけることさえ。
もちろん開封しないで即座に削除だが、差し出し人の名前だけは見えてしまう。女の子の源氏名が多かったのが、だんだん業務の内容をあからさまに述べたものが来るようになり、昨日の夜中のは「現金で大金」となっていて、そうか、次は金だよね、とあきれて笑っちゃいました。すごいでしょ、現金で大金。いちおう韻を踏んでいるのよ。
 今日の夕方のは「貧乳スレンダー美女」。こういうジャンルもあるのか。しかし、巨乳のばあいは「美女」という限定がつかない場合が多いようなので、乳が貧のばあいは容姿が良くないとジャンル的に難しいっつうことでしょうか。
 それにしても、お金になるからこういう迷惑メールを送り続ける人がいるのでしょうが、せっかく人として生まれて来たのに、こんなことを生業としているとは、どこのだれともしらないけど、なんとも残念なことであるよ。
 濡れ手に粟のような儲かり方をするとしても、人生の時間を棒にふり、生きている意味も喜びも指の間からこぼれ落ちているのに気付かないんだろうな。手のひらに残るのはお金だけで。満足なのかなあ。


 20080年04月03日(木)

 寝たのが明け方だったので、またしても朝一の宅急便に対応できず。ゴメンナサイクロネコさん。と思っていたら電話がじゃんじゃん鳴り、仕事上のほとんどトラブルに近いような寝耳に水なお知らせが舞い込む。ひええええ〜。
 うーん。どう対処すればいいんだろう。
 眠気も吹っ飛び、一気にアドレナリン放出。そのせいかどうか腰の激痛なしに起き上がることができました。うとうとしていた時は通常通り痛かったのに。ってことは、いつもはのんびりのんきにしすぎているのでしょうか。
 トラブルは、逆の視点から見てみると、結果的には自分の仕事がやりやすくなる可能性をはらんでいることに気付き、ベストに近い状態の対処ができました。腰痛を忘れるほどの必死の対応の成果でしょーか。
 そうそう、『うかぶおもい』の選曲をしていて、久しぶりに音楽を聴いて涙が出た。ヴァレリー・アファナシェフのモーツアルト。異様に遅いモーツアルトだということで、気になる演奏家のひとりではあったけど(だって、ホロビィッツが7分ほどで演奏する曲を16分かけて弾くんだよ)、この人のやりたいことがやっとちゃんと聴こえたような気がする。
 モーツアルトの軽快でまっすぐな音楽の底に流れる闇の世界。存在の真実を貫くような神聖で深く美しく恐ろしい世界がぱっくりと口を開けている。わたしたちは、闇から生まれて闇に帰っていくのだということを、そして、闇は光のはじまりだということを、頭でなく体の細胞に直接訴えかけてくる。
 おそらく、わたしがこのCDを買ったのが15年くらい前。当時は、惹かれはするけど、なんだかよくわからないし、ちょっと退屈で憂鬱である、というのが正直なところだった。それを聴いていて涙が出るとは。日頃気付きにくいが、すごい成長じゃん。苦労と失望の連続のような人生ではあるが、無駄ではなかったことであるよ。


 2008年04月01日(火)

 新年度スタートということで、チビッコダンスの小学生クラスに、今度一年生になるチビッコが初参加。ほとんどのチビッコが幼稚園卒園とともにやめていく中で進級?したチビッコはどの子もやる気に満ちていて、目がキラキラしている。かわいい〜。
 レッスンの内容はちょっとだけ難しく、ぜんぜんわかんない〜とか言いながらも、一生懸命見て一生懸命ついてくる。ブラボー新チビッコ。そして2年生になるチビッコたちは急にお姉さんになって、足のポジションとか教えてあげたりしていて、ブラボー新お姉さん。
 わたしも少しだけセンセイという役割に慣れてきたので、今年度はなるべく無理なく効率よく技術的な向上を目標にしたいものであるよ。ダンスが楽しくて踊るのが大好き、というチビッコ達が、踊ることで自信をつけ、周囲に認められ、さらに成長できるように。
 めずらし真剣でしょ。なぜなら、わたしもこの年齢のころからずっとダンスをやってきて、踊ることに励まされ助けられてきたので、チビッコ達にもその種をあげられたらと思うわけです。必要としているチビッコにはきっと伝わるはず。とにかくかなりやる気満々な新年度のオレです。

[INDEX] [2008.03] [2008.02] [2008.01] 
[2007.12]  [2007.09] [2007.08] [2007.07] [2007.06] [2007.05] [2007.04]  [2007.03]  [2007.02]  [2007.01]